研究室から逃げて大学中退してから自衛隊に行くことになった話⑨
入隊まで残すところ3週間となり、焦りだけが募って何もできない日々が続いていた。
入隊の案内を読んでは、ネットの掲示板で自衛隊の内情を調べようとした。
未知の世界に飛び込もうとするとき、その未知さに比例して不安が増幅することはよくある。
自分を安心させるために少しでも情報を得たかった。
しかし、良い話もあればもちろん悪い話もあり、不安で眠れなくなる日々が続く。
広報官に連絡したときの勢いは既になくなっていた。
しかし、当時の自分はもうここしかないと考えており、辞退する気になれなかった。
やっと離婚し、負の呪縛から開放された母に迷惑をかけたくなかったのだ。
とにかく何かしないでいないと落ち着かなかったため、走り込みと腕立て伏せを毎日するようになった。
半年以上ほとんど引きこもりのような生活をしていたため、身体が鉛のように重くすぐに息が上がった。
その事実がより焦りを招いたが、何もしないと気が狂いそうだったためそれよりはましだった。
残すところ2週間、案内に記載のある持ち物を確認し、不足しているものやネットで推奨されていたものをまとめてネットで注文した。
自分の全財産は残り一万数千円。恐ろしくなった。
大学も行っておらず、働いてもいない。このままいくと、1ヶ月後からは定義上ニートになってしまう。
親に迷惑はかけたくない。
不安ではあった入隊だったが、申し込んでよかったと心の底から思った。
そして半年前の秋に振り込まれた奨学金が少し残っていた。
自衛隊に入ってしまえば衣食住に困ることはないため全て繰り上げ返済用に使うつもりだったが、念の為残しておくことにした。
そして荷物も揃い、あとは当日最寄りの基地に向かうだけとなったが、最後に一番やっておかないといけないことがあった。
母への報告だ。
僕が大学卒業を諦めていることは承知であったが、この先どうするかは何も聞いてこなかった。
もちろん気になっていたことであると思う。
そんな母に自衛隊に行くつもりであること、もう試験も受かって今月末には家を出ていくことを打ち明けた。
「はい?」
まだ現実味を帯びていないようで半信半疑といった様子であった。
内定通知や案内のパンフレットを見せ説明する内にようやく信じてもらえた。
「でもあんた、やってけるの」
心配そうな目でこちらを見る母。
大学もまともに卒業できなかった僕が自衛隊に行ってまともにやれると思えないのは当たり前だ。
大学を卒業していたとしても、息子が軍に志願するなんて話を聞けば誰だって心配になるだろう。
母は思いつくだけの疑問をありったけ僕にぶつけた。
その各々について、母が本当に気になって質問しているわけではないことはわかっていた。
とにかく心配だったのだ。
そんな母を見ているとなんだか申し訳ないことをしてしまった気がしていたたまれなくなったが、もう決めてしまったことだ。
こちらも引くに引けず応対した。
「本当に行くんやね」
母はようやく納得してくれた。
納得してくれて嬉しいはずなのに、なんだか寂しい気持ちになった。
入隊二日前に、近くの床屋に行った。
「どんな感じでいきましょう」
無愛想な中年くらいのマスターと思わしき店員に目に掛かるくらいまで伸びた髪の毛を携えて一言伝えた。
「坊主にしてください」
切れ長のマスターの目が見開いた。
「坊主?」
「はい坊主でお願いします」
「いいけど、いいの?」
髪を今風に伸ばして調子に乗っている若者がいきなり坊主を要望してきたのだ。しかも坊主にするのはマスターだ。責任重大な気がして簡単には受け入れられなかったのだろう。
しかし、何度も押し問答をしているうちに僕の固い意志を読み取ってくれたようだった。
「お兄ちゃんなんかやらかしたんけえ」
「まあ色々ありまして」
苦笑いしつつ事情を濁す僕にそれ以上何かを聞いてくることはなかった。
「5mmくらいでええか」
「5mmがどれくらいかわからないですけど、それくらいでいいです」
慣れた手付きでバリカンの準備をするマスター。
よく考えてみれば、坊主含め今まで短髪にしたことなど一度もなかった。
今ある髪の毛が人生で初めてほとんどなくなると考えると少し緊張した。
「それじゃあ、本当にいいんやね?」
深呼吸をして覚悟を決めた。
「お願いします」
バリカンの電源が入り、ついに髪の毛が駆り取られようとした瞬間ふと思い出した。
「あ、真ん中からお願いします」
「え?真ん中から?」
驚いてバリカンを止めたマスターは素っ頓狂な顔をした。
「はい、お願いします」
一度もやることがないと思っていた、逆モヒカンをやる機会がせっかくできたのだ。
少しの間だけでもそれを楽しみたいと思った。
「わかったよ」
再度バリカンの電源が入り、バリカンを持ったマスターの手がゆっくり近づいてくる。
そしてバリカンが皮膚に触れた瞬間、僕の緊張は最高潮に達した。
刈り上げる音と共に僕の頭皮が一瞬で露出し、絶望感と快感が同時に訪れた。
そして、考える暇もなく逆モヒカンが完成した。
「あーあ。これでいいの?」
バリカンを止めたマスターは苦渋に満ちた表情で言った。
髪の毛を切って、客の要望に応える髪切屋が客の要望通りにして何ら悪いことはない。
しかし、客を逆モヒカンにして後ろでばつの悪そうな顔をしている店員を鏡越しに見ると可笑しかった。
「ありがとうございます。続けてもらって大丈夫です」
その後あっという間に僕の髪の毛はなくなっていき、坊主が完成した。
こんな顔をしていたのか。
毎日自分の顔は見ていたはずなのに、坊主になって別人と思えるくらい違いを感じた。
正直ブサイクだなと思ったのと同時に、髪の毛って大事だなと実感した。
もう失った髪はどうしようもない。
髪がなくなって見た目は芋臭くなったのに、物理的に頭が軽くなりなんだか気分が良かった。
もう戻れないところまで来てしまい緊張が解けたのもあったのかもしれない。
どうでもいいどころかスッキリした。
そんな僕の様子を見てマスターも安心したようだ。
「お兄ちゃん、坊主もいけるやんか」
本当でもお世辞でもどっちでも良かったが、無愛想なマスターが笑顔になったことが嬉しかった。
「せっかくだから顔剃りもマッサージも受けてけい」
その後とくに会話をすることもなく淡々と施術を受け、淡々と店を出た。
その夜、坊主になった僕を見て母は笑った。
「なんちゅう顔しとんの、誰かと思ったわ」
「顔は変わらんやろ、変わったのは髪や」
「いやにしてもどんな髪。急にギャグみたいな風貌やな」
「まあおもろいならそれでいいわ」
面白可笑しくイジってくれていたが、本当に行くんだということをより実感したようであった。
「本当に行くんやね」
「まあね」
最後は何だか気不味い雰囲気になってしまった。
「そういえば、悪いけど明後日基地まで送ってってほしい。休みやんね」
「わかった」
もう引き止たいがためにする質問責めも文句も行ってこなかった。
あっという間に入隊当日の日はやってきて、荷造りをしていた。
「あんた、何時に送ってけばいいの」
「2時間後」
「わかった」
不安と緊張で一杯の中、母の車に乗り込んだ。
行きの車の中ではほとんど会話はなかった。
今まで以上に何を話せばいいか分からなかった。
下手にいつもより話し込むのも不自然な気がするし、それなら沈黙の方がいい。
外の景色をなんとなく眺め続けた。
基地が見えてきて、急に心臓の鼓動が早くなるのを感じた。
ついに来てしまったのか。
駐車場に着いて、どうすればいいか困っていると基地の人がこちらに向かってきた。
「今日入隊の方ですか」
「は、はい。そうです」
名前と広報担当の名前を聞かれ伝えると慣れた様子で基地の中に案内してくれようとした。
「お母様はここまででお願いします」
「あ、わかりました」
門の中へは母は入れない。
「あんた本当に大丈夫」
今までにないくらい心配そうな顔をしている母がいた。
実際自分のこのメンタルでやっていけるか全く検討もつかなかったが、もうここまで来たら引き返したくなかった。
「わからん、でも行く」
少し間があって、母も答えた。
「そっか。じゃあ気をつけてね」
「うん。頑張ってくる」
そんなやり取りを担当の人は笑顔で見ていた。
「じゃあ行きましょうか」
「はい」
その後母に背を向けて歩き始めた。
門をくぐると、基地内を歩いている人は迷彩服を着ている人ばかりだった。
戻れないところまで足を踏み入れてしまったと思った。
「ちょっと待ってもらっていいですか」
担当の人に伝え、後ろを振り返ると門越しにまだこちらを見ている母がいた。
泣きたくなるのを誤魔化すためにふざけて手を振りたい衝動を我慢し、前を向いた。
「色々大変なこともあると思うけど、頑張ってね」
「ありがとうございます。頑張ります」
二度と振り返るまいと誓い歩き始めた。
終わり。