毎年多くの自殺者がいるらしい。
自殺者が出るたびにやれ「自殺するくらいなら仕事やめればよかったのに」とか「自殺するなら何もかも捨ててしまえばよかったのに」とか自殺するくらいなら何とでもできただろうって話をよく聞く。
自殺する人が自殺する以外のことを考えられるほど冷静なわけがないだろう。
中には冷静に自殺する選択肢を取って安楽死している海外の人もいるみたいだけど、ほとんどはそうじゃないだろう。衝動的なものだと思う。
なぜ自殺するか。いろいろ耐えられないことがある。絶望する。周りが見えなくなる。そうすると、自分の周りには誰もいないんだってなるんだと思う。頼れる人はいない。未来に希望もない。
僕は死にたいと言いながらも死にたくないとも思ってる。
死にたいのは今後自分が良い方向にいくとは思えないからである。未来に絶望している。自分の性格、気質、甘えているところ、それを直せと言われても素直になれないところ。どこをどうとっても絶望しかないと考える。客観的に見たらそうではないかもしれない。他人は「絶対なんとかなる」「死ぬくらいなら生きてるだけでいい」とかいろいろ言ってくる。
違う違う。ただ僕はいつもの逃げ癖を人生にも適用させたいだけ。僕はいろんなことから逃げてきた。逃げの集大成として人生からの逃げをして苦しみから解放されたいだけ。結局今まで小さなことから逃げてきたことと何も変わらない。自殺を大それたものと捉えないでくれ。
でも、何もかも上手くいってそれなりに人生を歩めるなら死にたくないって考える自分もたまにいる。少しメンタルがましなときだ。でも結局僕は繰り返すんだ。
今日車を運転していて事故らなかったのが不思議なくらい、運転中気が狂いそうでふわふわしていた。気が狂いそうなふわふわした自分と、これいつ事故ってもおかしくないなと自分を客観視する自分がいた。
なぜ生き永らえたいと思っている必要とされてる人が早く死に、生きたくない人が人生という苦行を続けなければいけないのか。
今まで他人の目、他人の意見を尊重してきた。
何が食べたいと言われればあなたが食べたいものと答え、何したいどこ行きたいにもあなたのあなたのと答えてきた。けどそれは尊重ではなかった。嫌われたくなかっただけだった。
プライドが高かった。事の大小に関わらず自分の失敗を誰にも話せなくて、それでも周りと関わるには本当のことを話さないと矛盾が生じる。だから逃げた。
今となっては連絡できる人は家族しかいない。
そんな家族にも嘘をついている。母は世間体を結構気にするし、仕事をしないできない人を非難しがちなので話せるわけがない。
いつも思うのは自分のどうしようもなさだ。
今こんなことになっているのは全部自分のせいなんだ。
いじめを受けていたとか、仕事でパワハラをされたとか、親の虐待にあっていたとかそんなものは一切ない。いたって普通の人生を歩んできたつもりだ。
多分日本全ての家庭の中ではましなほうだったのではないか。それくらい何不自由なくやってこれらたんではないだろうか。
なのにこんな有様だ。
自分が書いた文字列を見て、なんて自己満足な記事だと思う。
結局自殺なんてこわくてできない。インターネットのつながりは所詮傷の舐め合いでしかないというのはここ1年ちょっとでわかってきた。ごめんよみんな。
自分には何もない。誰もいない。
海外ドラマをずっと英語音声日本語字幕で見ても何も意識しなければ汚い言葉しか覚えられない。